『苦しい。 もう嘘はつきたくないんだよ!』
私は今、45歳独身。2ヶ月前に前職を辞め無職。実家で親と暮らしている。ニートに近い状態で、貯金も底をつき心細い限り。
19歳〜45歳の16年間で、転職回数は20回を超え、履歴書にほんとうの事など書けるはずもない。今までの職歴の中から2.3個ピックアップして就労期間を大幅に偽り何とかそれらしい履歴書を完成させる。
その履歴書を見ながら頭の中でイメージトレーニングを繰り返し、着心地の悪いリクルートスーツに身を包み、詐欺師のような笑顔で面接に出掛けて行く。
もう慣れたものだ。何度同じことを繰り返したのだろう?
この3ヶ月間で5回の面接に行き、一件は内定をもらったが、どうしても気が乗らずにこちらから断った。残り4件は向こうから断られた。
たとえ就職出来たとしても、ついた嘘はつき通さなければならずそれが心的負担となる。
今まで私が最も長く一箇所に務められた記録は2年半。
全力で頑張ってもどうせ2.3年後にはまた同じことを繰り返すハメになる。
なぜだ?どうすればいいんだろう?
絶対に何かが間違っている。
何かを変えなければ!
けど何をどう変えればいい?どうしてこんな事になってしまったのか?
社会に順応しお金を稼ぐ為に、人から変な目で見られないように、まともな人だと思ってもらえるように、世間様に認めてもらえるように、親に心配をかけないように、自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。
でも結果は16年で転職20回越え。転職大魔王だ。なぜだ?単に飽きっぽいだけなのか?
『初めまして!よろしくお願いします!』
『短い間でしたがお世話になりました!』
というループを20回以上繰り返したと思うとさすがにげっそりしてくる。もうマジでうんざりだ。
やはり『人からどう見られるか?』『年相応に!』『経済的な安定が第一』などという考えにとらわれ、一番大事な『自分がどうしたいか?どうなりたいか?』という事を無視してきたからこんなことになってしまったのではないか?
いやしかし、真剣に進路を考えたことも何度かあったはずだ。ここ10年くらいは転職するたびに『自分の好きな事を仕事にしよう!』と決意していたような気がするが、この決意は長続きしない。
すぐに『とりあえず日銭を稼ぎながら』とか『とりあえず就職して働きながら好きな事をゆっくり探そう』と考え始める。
退職を決め、安定収入の道を絶たれ恐怖に震えている僕の心は、このとりあえずというエゴの罠に簡単にはまってしまう。
そして就職してしばらく経つと、目の前に繰り広げられる現実の勢いとスピード感に圧倒され、好きな事を仕事にしようという決意の事などすっかり忘れてしまい、とりあえずなどと言っている余裕は全くなくなってしまうのだ。
苦しい。出口の見えない迷路だ。混沌とした重い思考が頭の中を占拠する。
軽かったフットワークは見る影もなく、もう自分がわからない。
働き先をコロコロ変える事は犯罪ではないはずだ。個人の自由だ。
でももう疲れた。いったい何がしたいんだ?
45になってようやく気づいた。
『僕は自分の事を何もわかっていない』という事に。
『僕の思う自分とほんとうの自分との間には驚くほどの開きがある』という事に!
遅すぎる気もするが、とにかく気がついた。今は気づいた事を素直に喜びたい。
おめでとう!ゆうじ。
『本当の自分、本来の自分』とはなんだ?本当にわからない
わからないが、間違った方向に進んでいる時や意に沿わないとこを無理にやっている時に感じる強い違和感やストレス、謎の体調不良、人間関係の悪化などで強烈に方向修正を迫ってくる得体の知れない力は何度も感じた事がある。
『本当にこれでいいのか?』
『そっちに行っても幸せになれないよ』
という心の内から聞こえてくる静かだが、一貫した声。この声は事あるごとに私に疑問を投げかけてきた。
これが本当の自分からのメッセージだったのかもしれない。なぜその存在を感じながら無視し続けてきてしまったのか?
怖いからだ。道から外れるのが。
みんなと同じにしていないと不安だから。
みんなって誰だ?
何に怯えているんだ?
本当の自分の声を無視して無理に何かに合わせようとするから自分がわからなくなり迷ってしまう。
どうすればこの恐怖を克服できる?
まあいい。いったん落ち着こう。
まずは時間をかけてゆっくり本当の自分を思い出してみよう。
まずは古い記憶をたどり、子供の頃から今までの半生を振り返ってみることにする。
何か本当の自分を思い出すきっかけになるかもしれない。
幼少期
僕は昭和53年生まれの45歳。三人兄弟の末っ子として生まれた。兄と姉が一人づついる。
父親は高校教師、中卒で一度工場に就職するも工場労働に嫌気がさし夜間部の高校を卒業して大学で教員課程をとり物理の教師になった。この親父のサクセスストーリーを100回は聞かされた。その後結婚して地元の工業高校に勤めていた。
気の短い性格で気に入らないことがあると大きな声で怒鳴り、兄や姉や僕そして母をスリッパや新聞紙で殴った。僕もよく怒鳴られ、殴られた。今では大問題だが当時は当たり前の光景だった気がするが、殴られるのは気持ちのいいものじゃない。
親父は教師としての自分を常に演じてるようなところがあり、そんな教師らしくあろうとする父親は大嫌いだった。高圧的で何か堅苦しくて息が詰まった。
素の親父はどことなく自信なさげで臆病な優しい人だ。ギャンブル好きで本をよく読む人だ。麻雀をしている時の親父は気合が入っていて好きだった。小さい時宇宙の話やアインシュタインの相対性理論についてよく話してくれた。面白かった。
母親は商売家の一人娘で何不自由なく育ったような人だ。よく言えば天真爛漫、悪く言えば世間知らず。二人はお見合い結婚のようだ。
父親が厳しい反面子供たちには優しく怒ることは少なかったが、たまに怒った時の本気のゲンコツは父親以上に迫力があった。
時々父親を扇動して子供達に間接的に説教することがあった。そんなずるい一面もあった。
機嫌がいいときに聞こえてくる母親の鼻歌が好きだった。
そんな二人の間に僕は次男として生まれた。
小さい頃よく6歳離れた兄や4歳離れた姉が父親に怒られて殴られていた。それをを見ていて心底怖かった。恐怖心のあまり僕は反射的に父親の顔色をうかがって、父を怒らせないように殴られないようにしていた気がする。
今にして思えばそれは父親なりの愛情表現だったのかもしれないが、幼児の僕からしたらただの暴力だ。
常に父親に気を使い、空気を読むクセが小さい頃から身についていた。怖くて親父の前で自分を表現できなかった。
よく母親に『要領がいい』と言われたが、それは幼児が自分の身を守るために必然的に身につけてしまった悲しい習性なのだ。
この習性は今でも抜けていないと思う。僕は自分より目上の者、職場の上司や社長など権力者を前にすると何となく緊張してリラックスできない。そして我慢しすぎて何か主張する時は必要以上に攻撃的になってしまって関係がギクシャクしてしまう。そんな事を繰り返してきた。うまく距離感が保てない。
上司とうまく関係が築けないルーツは小さい頃の家庭環境にあったのかもしれない。これは大きな発見だ^ ^
小学校
小学校1年生の時は2つの思い出深い記憶がある。
ひとつ目はうんこを漏らした事。確か帰りの会の途中にもらしてしまってみんなが帰った後にこっそり担任の先生に報告したと思う。みんなの前で恥をかくことは避けられたが何となく悲しい敗北感と罪悪感の嫌な感じは今でも覚えている。当時の僕にとっては辛い出来事だった。
ふたつめは、友達と4人で駄菓子屋で万引きして店のおばさんに見つかり、学校に報告された事。
次の日の放課後、それぞれの親が教頭先生に呼び出された。教頭先生は穏やかだったが担任の先生と母親は泣いていた。母親に何度も引っ叩かれたのを覚えている。
家に帰ってからも父親にたくさん殴られて押し入れに閉じ込められた。僕はずっと泣いていたと思う。自業自得だが辛かった。
しかし、怒られた辛さよりも万引きを働いた当日の夜、店のおばさんにはバレたが親にはまだバレていない状態で布団に入った時に襲われた、とんでもない不安感。胃の辺りぎゅーっと締め付けられる感覚の方が強く印象に残っている。
なぜ万引きなんてしたんだろう?それは多分好奇心だ。『お金を払わないで物を持って行ったらどうなるんだろう?』と思ったのかもしれない。そういう意味では好奇心の強い子供だった。
1年生の時万引きをして親に怒られまくり、信用を失った私は打って変わって2年生では真面目になり、先生の言うことは何でも聞いて優等生になろうとした。成績も良かった気がする。
この頃から、本当の自分を隠し周りの求める自分を演じるクセがついたのかもしれない。
小学3年生の時に、兄が入っていた地元の少年野球団で野球を始めた。本当は野球よりもピアノが習いたかったが、当時はピアノを習う男の子は少なく、周りの友達も野球をやっていたので何となく周りに流されて野球をやる事になった。別に野球はそれほど好きではなかったが、友達と外で体を動かすのは好きだったのでそれなりに楽しかった。
結局中学3年生まで野球を続けたが、野球をプレーすることが楽しいと思ったことはそんなに無かった。チームプレーというものが苦手だったし、イマイチ理解できなかった。
今思えばこの辺りがひとつ目のターニングポイントだった気がする。本当の自分丸出しで小学校に入学したが、集団生活の中で指導、矯正され新しい対外的な自分を形成して行ったように思う。
ある意味成長ではあるが、弊害も大きい。万引き事件の時僕の味方をしてくれる人はひとりもいなかった。その時の強烈な孤独感と恐怖の体験がきっかけで『本当の自分』『素のままの自分』を心の奥深くにしまい込んでしまった気がする。
小学校4年生の時の記憶はあまりない。元気よく過ごしていたと思う。
小学校5年生の時、野球の試合の後ひとりの友達K君と喧嘩をした。仲の良かった友達だがちょっとしたことで口論になり殴り合いの喧嘩になった。思いっきり顔面を殴られ鼻血が大量に出た。思わず僕は泣き出し友達がみんな集まってきて大騒ぎになった。
喧嘩に負けた悔しさと恥ずかしさで僕の涙は止まらなかった。惨めだった。
ここまでは僕がただ喧嘩に負けただけだが、ここから先の展開は予想外だった。
周りの友達は大泣きする僕に同情し、の方が何となくK君の方が悪者という感じになり、チームの中で浮いた存在になってしまった。僕が扇動したわけではないが集団心理とは恐ろしい。
そして、数ヶ月経った頃、K君はみんなから無視されるような状態になってしまった。はたから見れば僕が喧嘩に負けた恨みをネチネチ晴らしているように見えただろうが、本当に自然の成り行きでそうなってしまった。
もっと早い段階で僕の方からK君に対して歩み寄るべきだった。結局最後はK君の父親がうちの家に怒鳴り込んできた。何を言われたか覚えていないが僕は謝らなかった。大人にはわからない子供同士の繊細な出来事なのだ。
そうしてK君とは最後まで口を聞かずに別れてしまった。今でも後悔している。僕にとっても暗い思い出だ。
5年生の時は暗い思い出だけではない。僕は隣の席の女の子を好きになった。見た目は地味な感じでクラスの中でも目立つようなタイプではなかったが、柔らかい雰囲気で話していて安心できる女の子だったし面白い話で時々僕を笑わせた。告白したりとかはしなかったが、僕は好きだった。あれが僕の初恋だ。
彼女と同じ班で行った林間学校は楽しかった。キャンプファイヤーにはんごう炊飯。僕はおおはしゃぎだった。今思い出してもほっこりする。
6年生の時は修学旅行や色々な事があったと思うが、あまり印象に残っていない。割と活発で元気な少年だった。
中学〜高校
そしていよいよ中学入学、一言で言えば中学校生活は凄く楽しかった。友達もたくさん出来た。今でも交流のある30年以上続く友情は中学時代に育まれた。
時は90年代初頭、いい時代だったと思う。バブル経済は崩壊したものの日本人の気持ちは明るく、楽天的だった。今よりものんびりしていて流行がシンプルだった。
僕は活発で、エネルギーに溢れていた。何が楽しかったのかよくわからないがただ生きてることが嬉しかった。
不思議だ。楽しかった時というのは覚えているが具体的な思い出があんまり浮かんでこない。辛かったことは細かく覚えているのに。人は楽しいことよりも辛いこと、悲しいことを強く心に刻むものなのか?
とにかく中学時代の3年間は、ふわふわニコニコしていた。勉強もまあまあ出来たが第一志望の高校には落ち、滑り止めのスポーツで有名な私立高校に入学することになった。
中学時代とは打って変わって高校時代は暗かった。元の中学でわいわいやっていた僕は、全国から生徒が集まる私立高校の雰囲気に全く馴染めなかった。
学校の雰囲気が好きになれなかった。僕は一緒に入学した中学時代の友達と休み時間のほぼ全てを図書館で過ごした。部活は英語部。部活中心の学校運営でスポーツが得意な生徒を全国から集めていた。僕のような部活に興味のない者は居場所がなかった。全く楽しくなかった。
可愛い子がいても、もうその子はサッカー部やラグビー部の誰かと付き合っていた。ノーチャンスだ。
僕は授業が終わるといち早く帰宅し、バイトをしたり、地元の友達の家に入り浸って過ごしていた。学校生活は無味無臭。完全に消化試合だった。ただ、高校卒業という権利を得るために職業的に通い続けた。
なぜそんなに高校卒業に義務感を感じていたのか?やはり周りの目、親の目、世間の目を気にして本当の自分を偽って惰性で高校生活を無難にやり過ごした。
積極的に自分を変えようとせず、ただ居心地のいい居場所に安住し。学校がつまらないと思っていた。
周りの目。そんなもの100%自分が創り出した幻想だ。周りの人は僕のことを監視してなどいない。当たり前のことだ。高校生の僕はそんなことはわからなかった。ただ実態のないものに怯えていた。
高校時代の3年間で良くも悪くも時間を消化するクセみたいなものが身についてしまった。
この頃から両親の仲が悪くなり、母親の不倫が発覚した。なぜそうなったのか僕にはよくわからない。とにかく親父が怒り狂い母親をよく殴っていた。見るに耐えない光景だった。
父親を中心にひとつにまとまっていた家族がバラバラになっていくのを感じた。家族というものはうまくいっている時は強固に見えるが、一度歯車が狂いだすと脆いものだ。
色んな意味で不安定な高校時代だった。
ただ、高校時代は図書館を根城にしていたので、よく読書をし音楽を聴きまくっていた。自分をうまく表現できない鬱々とした学校生活と家庭の不満を、読書と音楽で晴らしていた。
読書と音楽は、その後も僕の人生に寄り添い、助け、生きる力を与えてくれた。
特にボブマーリーのレゲエミュージックは、沈みがちで不安定な10代の僕の心に突き刺さった。
『bob marley & the wailers』今でもよく聞く僕のお気に入りのレゲエバンドだ。
南国らしいゆったりした、しかし非常にタイトなリズム。地を這うような太いベースに湿気を帯びた重たくパワフルなカッティングギター。そこにボブマーリーの超個性的なボーカルフローが絡みつく。中毒性の高い音楽だ。
ジャマイカのスラム(ゲットー)で生まれた、虐げられた黒人の嘆きのサウンド。既存の社会構造に音楽で反逆し抵抗する。僕にとっては非常に斬新だった。その不屈のメッセージが鬱々とした高校生の僕のマインドにピッタリフィットした。
高校時代はずっとレゲエばっかり聴いて過ごした。当時の僕の心の支えだった。音楽の力というものを初めて感じた。
陰と陽は表裏一体。高校生活は自分の思ったものとは全然違ったが、得たものも大きかった。
それに高校時代にはバイトをたくさんした。部活をやっていなかったので時間が有り余っていた。
人生初の労働は高一の夏休み、近所のファミリーマートだった。シンプルなコンビニ接客業務だが、新鮮だった。ポテトを揚げたり、お弁当を温めたり。特に楽しくなかったが嫌でもなかった。
厳密に言えばこれが僕の職歴のスタートだ。
店長が高学歴で高圧的な人物で多少鼻についたが、そこは16歳のフレッシュさで乗り切った。夏休みだけの短期バイトだったので無難にこなせた。
次のバイトは高一の冬休み、ファミリーレストラン、デニーズでのウェイターの仕事だった。年末年始の繁忙期要因として雇われた。ちょっとした研修がありすぐにスタート。
ウェイターの仕事は好きになれなかった。
定型分を読むだけのロボットのような接客は著しく退屈だ。もうちょっと雑でもいいから人間味が欲しい。人と人が触れ合っている手応えがない。いったい誰があのような接客を好むのか?そして忙しい割に評価が低く、報われない。このバイトは繁忙期に入ったクリスマス直後に辞めてしまった。
周りのスタッフには迷惑をかけたと思うがもうとっくに時効だろう。
次のバイトは高校2年の春から地元のスーパーでレジ係を始めた。夕方〜夜までの3.4時間の仕事だ。これは高校卒業まで続けた。地元密着型のスーパーでゆったりした空気で楽しかった。接客という接客はほとんどなく近所のおばさんと談笑していれば良かった。今思えばいい時代だった。
スーパーとバイトと並行して高校3年の夏休みには高原野菜の収穫のアルバイトをした。キャベツとレタスと大根の収穫だった。40日間朝5時〜夕方3時くらいまでのハードワークだ。
自然の中での仕事で気持ちいいけどキツかった。キャベツと大根が重かった。ここでは農家の仕事の厳しさと新鮮な野菜の美味しさを学んだ。
そして高校卒業から大学入学までの1ヶ月間、港の缶工場で缶を作るバイトをした。初めての工場ワークだ。缶の蓋を小さい箱に詰める単純作業だ。最初は工場見学みたいで楽しいが、すぐに飽きた。難しい仕事ではないけどとにかく時間が経つのが遅かった。
時計が止まっているんじゃないか?と何度も疑った。金のためと割り切って時間を切り売りしてる感じがした。まあこういう仕事もあるんだなーって思った。まあ暇だったのでお小遣い稼ぎにはちょうど良かった。
大学
鬱々とした高校時代をくぐり抜け、僕は大学へ進学した。某大学の附属高校だったのでたいした苦労もなくエスカレーター方式で大学へ行くことができた。
何の目的意識もなく漠然と、周りの人間と同じように進学した。
初めての一人暮らし。憧れのキャンパスライフ。
結局僕は1年半で大学を中退した。大学とはいっても高校の延長のような雰囲気で相変わらず学校の雰囲気に馴染めず、テンションが高い周りの友達ともどうも気が合わなかった。
一緒にはしゃぎたいけど素直になれないということでもなく、ただ学校というものに意味が見出せなかった。大学生活は学校の講義そのものに価値があるというより、そこでの人間関係や、長い休みの中で得られる経験や遊びの中で自分を発見していくことに価値があるような気がする。
父親がよく『大学に行けば好きなことができる』と言っていた。それは大学生という身分、講義はあるがそれは一年の半分程で、高校生よりかなり自由で、社会人のように会社や仕事に縛られない環境。長い休みを利用してバイトをすれば金銭的にも余裕がある。
この責任は薄いが、ある程度自由がある状態。このような状態であれば気楽に自分がやりたいと思ったことをプレッシャーを感じずに楽しむことができるという意味だと解釈した。
言いたいことはわかるが、僕はこの限定された自由というものがいまいち肌に合わなかった。何となく中途半端で気持ち悪かった。胸がもやもやした。僕はもっと自由にしたかった。
そして、自由を謳歌した結果、僕はほとんど学校に行かず、一緒に進学した高校時代の友達の家に入り浸り、ゲームをしたり、朝からパチンコをしたり、自堕落な生活を送ることになった。
学校には20回位しか行かなかったと思う。時々バイトをして、近所の野良猫を家に招き入れ、昼と夜を逆転させ、ゲームをし、家でダラダラ過ごしていた。自由だったが全然楽しくなかった。
大学一年の夏休みに植木屋さんのバイトをした。暑い時期だったので朝6時から午後3時くらいまでの仕事だ。チェーンソーやバリカンを使って植木を伐採したり、剪定の手伝いをした。外の仕事は割と好きだったが暑くてキツかった。それに僕は虫に刺されると人の2倍くらい腫れてしまう体質で虫に刺されるたびに患部が大きく腫れかゆみに苦しんだ。
仕事そのもののキツさよりもそっちの方が辛かった。でもぼさぼさで生い茂った庭木を剪定し綺麗になると気持ちよかったし、外で食べるご飯が美味しかった。
そして伐採した木を会社の庭に掘った大きな穴で焼き払う作業が好きだった。これは暑くても夢中になってできた。この仕事は夏休みの間の2ヶ月で終わった。
後期の授業が始まっても学校には行く気が起きず、またダラダラした生活に戻ってしまった。大学の授業は真面目に出席さえすれば何とかなるものが多い。
でもそれができなかった。今考えればもっと気楽に考えて適当に授業だけ顔を出していればそれでよかったのに。なぜそれができなかったのだろう?とにかく何か嫌だった。
何度行こうと決意してもダメだった。学校にこうとしても駅前のパチンコ屋で気が変わりパチンコ屋に入ってスロットを打ってしまう。そんなダメな奴だったが途中からスロットに真剣になり真面目に攻略するようになった。
授業に行っていない罪悪感は強くあったが、スロット攻略に夢中になって貯金を増やした。90年代後半頃のスロットはある程度の技術があれば誰でもプラス収支を叩き出せた。そんな時代だった。
ほとんど授業に行かないまま長い春休みがやってきた。授業に行っていない罪悪感と自己嫌悪、自分が何をしたいのかわからなかった。(25年経った今でもわからない)
そんな鬱屈した思いを晴したかった僕はスロットで貯めた貯金をはたいてジャマイカに行くことにした。とにかく気分を変えたかった。あり余るエネルギーを発散させたかった。
初めての海外旅行。初めての飛行機。レゲエの国をこの目で見てみたかった。
英語は全くしゃべれない。とにかくどきどきした。当時の僕にとっては大冒険だった。そして黒人が怖かった。
19歳の僕は怯えていた。ジャマイカの首都キングストンは思ったより田舎だった。殺伐としていてダークな雰囲気だがそこらじゅうからレゲエが聞こえてくる。屋台でミックステープを売るおじさん。草の匂いが鼻をつく。底から湧き上がるような活気に満ちていた。刺激的だった。
滞在期間は1ヶ月。三日間しかホテルを取っていなかった僕は焦っていた。どうしよう?
でも偶然会った日本人のお姉さんが安い日本人宿を紹介してくれた。助かった。『何とかなるもんだな』日本人ってどこにでもいるんだな。小さい島国なのに凄いパワーだな。あの時は日本人であることを誇りに思った。
僕はボブマーリーの生家を訪ねたりレゲエのレコードをたくさん買い込み一通り観光を楽しんだ。
でもレゲエはスラム(ゲットー)で生まれた音楽。ジャマイカンゲットーが見てみたい!知り合いになったジャマイカ人にゲットーに連れて行ってもらった。
アップタウンとは全く違う雰囲気だった。殺伐として半分くらい舗装が剥げた道路脇のトタンの扉をくぐるとそこは別世界だった。まるで洞窟のように湿気を帯びた入り組んだ小道が無限に続いていた。
痩せこけた野良犬がうろうろしていた。せまい空間にひしめき合うように暮らす人達。弱い獲物を睨むような目で僕のことを凝視していた。怖かったが刺激的だった。ジャマイカのリアルがあった。
そこで一人の日本人に会った。歳は僕と同じ19歳だった。ひとりでゲットーに住んでいた。驚いた。彼はもう半年間ひとりでゲットーで暮らしているという。何のために?野生的な目つきが印象的だった。
気づいたら僕たちは仲良くなっていた。地元のつれみたいに。お互い同じ年のレゲエ好き。共通点はそれだけあれば十分だった。若い頃は他人とすぐに仲良くなれた。何の違和感もなくスムーズに。
今更19歳に戻りたいとは思わないが、あの感覚だけは取り戻したい。
初めての海外旅行は最高に楽しかった。やる気がでた。
旅行から帰って大学生活に戻った僕は、もう一度学校に行ってみようと思った。行こうと思って夏まで頑張ってみたがやっぱりダメだった。小学校から12年間学校生活をしてもう飽きていた。
周りの友達が大学へ行くので、僕も行ってみたが続かなかった。何の未練もなく大学は辞め、実家へ舞い戻った。
この時実家では母親が出て行ってしまって父親がひとりで住んでいた。そんな父親の元へ舞い戻った。若い頃の親父なら僕のことを殴っただろうが、この時の父親は憔悴し切っていて僕を殴る元気などなかった。
元々5人で住んでいた家に父親と二人きり。何とも言えない複雑な気持ちを抱えたまま、なだれ込むようで僕は社会人生活をスタートさせた。
社会人(20代)
学生という身分を捨てた僕は実家で仕事を探し始めた。学校は辞めたものの就職して腰を落ち着けるつもりはなかった。僕はお金を貯めてジャマイカにもう一度行きたかった。
ジャマイカで何をしたいのか?それはよくわからなかった。ただもう一度行きたかった。
レゲエミュージックに浸りたかった。草の匂いに包まれたかった。自分を取り巻く現実から逃げたかっただけかもしれない。それでもいい。とにかくもう一度ジャマイカに行きたかった。それ以外のことは本当にどうでもよかった。そういう勢いがその時の僕にはあった。
右も左もわからなかったのでとりあえず、高校3年の春休みにバイトしていた缶工場に声をかけてみたらすぐに働かせてくれた。夜勤専門の仕事だった。夜8時〜朝8時までの12時間。ひたすらに缶を作るライン作業。それを週5日間。辛かったがすぐに慣れた。
人間大抵のことにはすぐ慣れる。とりあえず黙々と働いた。休憩時間には音楽を聴いた。
その仕事は法律の関係上2ヶ月続けると1ヶ月休まなきゃいけないシステムだったので2ヶ月で辞めた。
次は友達の父親の紹介で病院の救急窓口の夜間事務の仕事をした。座ってできる事務の仕事に心躍ったがこれは夕方5時〜朝8時30分までの15.5時間の夜勤。とにかく長かったが基本ひとり作業で割と自分のペースで仕事が出来た。これは僕の個性に合っていた。
途中1ヶ月の長期休暇を申請しインド旅行に行った。1999年 初のインド旅行。
これはとにかく衝撃的で刺激的だった。ユーラシア大陸の壮大さと埃っぽい空気が懐かしい。ジャマイカとは全然違う世界だった。カルチャーショックを受けた。
1ヶ月後に帰国し元の職場に戻った。結局この病院の仕事は1年6ヶ月勤めた。
日本での生活をなるべく節約しお金を貯め、僕は無事二度目のジャマイカへ旅立った。大学生の春休み旅行とは違い、一応社会人になってから仕事を辞めて海外に行くのは何となくプレッシャーを感じた。この時初めて大学生の気楽さがうらやましく思ったが、もう後戻りはできない。
2000年。2度目のジャマイカ旅行。期間は半年。
自分の好きなアーティストに一曲ごとにお金を払って、自分の好きな曲を自分の好きな歌詞で自分の好きな伴奏(トラック)で歌ってもらうダブプレートというビジネスがジャマイカにはある。
僕はそれをやってみたかったからやってみた。何曲か録ってみたが全然思うようにはいかなかった。有名アーティストになるとかなりの売り手市場で相当な値段をふっかけられる。
半ばカツアゲのような状態でレコーディングに望む。言葉がうまく伝わらない。いろいろ注文したいが意思が伝わらない。非常にもどかしい。悔しいが全てにおいて経験不足、資金不足だった。6000ドルほど使ったが思ったようなダブプレートは結局一枚も録れなかった。
残念だったが、レゲエアーティストに直接会えたのは嬉しかった。いい思い出だ。
ダブプレートにお金を使いすぎてしまい、日々の生活は割と質素だった。日本に帰って仕事をしなければ!と焦っていた。何となく敗北感を感じながら帰国したのを覚えている。
勢いよく大学を中退し、ジャマイカに出かけて行ったが悔しい思いだけを残して日本に帰ってきた。
何か仕事を探さなければ!
この頃の僕の頭は怖れでいっぱいだった。お金に余裕があっても仕事をしていないのが怖かった。日本という国での空白の時間が心底怖かった。
『とにかく何かしなければ!』『何でもいいとにかくそれっぽい形にしなければ!』
パニック状態である。前後不覚である。こんな状態でまともな職探しなどできるはずもない。
そんな状態の僕が選んだ仕事が不動産営業。
1996年発表、ユアン・マクレガー主演の大ヒット映画『トレインスポッティング』。当時の若者のバイブルのような映画だったはずだ。イギリスのヘロイン中毒の若い男達のトリップを描いた青春映画だ。
その映画の主人公がある時ヘロインをやめると決意する。そして不動産会社に就職する。一時はバリバリ働くが昔の仲間に仕事をかき乱され結局またヘロイン生活に戻っていくというくだりがある。
その時主人公のユアン・マクレガーが着ていたスーツがマジでかっこよかった。『俺もあんなのが着てみたい』と考えユアン・マクレガーと同じ不動産営業を始めた。
ジャマイカ帰りの男がこんな動機で始めた仕事。それがうまくいく確立など1%もない。
現実は映画とは違った。日本の不動産会社はイギリスのそれとはだいぶ違う。
僕が入社したのは昭和の社風がそのまま残った昔ながらの使い捨て営業だった。日本語ができて健康なら誰でも採用という感じの会社だった。入社時の研修もまた古臭い。
まず1週間の座学とビジネスマナーの研修があった。名刺の出し方や電話対応など当時の僕には初めてのことで新鮮だった。その後カウンター営業のロープレがあり、最終日にそれらの試験があった。1週間ウィークリーマンションに住んで毎日研修所に出掛けていくスタイルだった。
この時教わったビジネスマナーや電話対応の基礎はすごく役に立った。ありがたかったです。
その後二泊三日の山籠り研修が待っていた。まず各営業所の新入社員40名ほどが早朝に山奥の公共の自然の家のような施設に集められる。そして携帯を没収される。
下界との接触が絶たれたところで鬼教官が現れ、かなり厳しい口調で研修の概要が説明された。まず初日はランダムな4つの班に分かれて山道を40km歩く。結構な年齢の人もいたので途中で体調を崩す人も出てくる。それでもそんな人を助けながら励ましながら歩き切る。僕は若かったので体力的には問題なかったが、その日に作られた即席のチーム内のコミュニケーションに苦労した。
遅い人のペースに合わせて歩くので、かなり時間がかかった。暗くなってからゴールし夕飯を食べてその日は就寝。部屋は2段ベッドがふたつの4人一部屋。起床した後しっかり布団を畳むとか食事中や雑談中に足を組むなとか肘をつくなといった細かいルールがたくさんあり、鬼教官とその部下がルールを破った奴を厳しく注意する。初日に体力を奪われているので肉体的にも精神的にも疲弊してくる。
そして2日目のカリキュラムはまず『私はダメな人間です』『私は何も持たない人間です』などの自虐的言葉をたくさん暗記してみんなで喉が裂けそうな大声で叫ぶ。これも鬼教官のチェックがあり20m以上離れた場所にしっかり声が届かなければいけない。
かなり狂気じみた光景だったがこれで午前中が終了。この時点で泣き出す人もいて場の空気は一気に暗くなってくる。
午後は同じスタイルで会社の社訓や理念、理想を丸暗記し叫ぶ。そして自分の決意表明を自作し暗記して叫ぶ。これを繰り返した。この時点では数人の脱落者が出た。
そして最終日は最終チェック。山の中の広場で30mくらい離れた教官に向かって前日覚えた全てを全力で叫ぶ。合否の基準はよくわからないが、気合が入っていれば合格または泣けば合格みたいな感じだった。声が小さかったり、泣けないものは何度も繰り返しやらされる。最後の一人が終わるまでみんなで見守る。各店舗の店長が合流し最終チェックの様子を見守る。異様な緊張感だった。
最後の一人が合格すると鬼教官達が急に優しくなり、場は不思議な一体感に包まれる。半分くらいの人は涙を流しお互いの健闘を讃えあう。『これから頑張っていこうね!』と。
『全く意味がわからない』『狂ってる』これが僕の感想だった。
自然豊かな静かな山の中で騒がしい連中だ。自然の家の使い方を間違えている。自然を楽しむという感覚を持ち合わせていない節操のない会社だった。かなり特殊な研修だったので今でもよく覚えている。
この会社は人の入れ替わりがとにかく早かった。先輩達もすぐにいなくなるが残る人は残る。という感じ。僕は半年頑張ったが度重なるトラブルにメンタルが続かず辞めた。
上司に辞めると言えるような環境ではなく、猛烈営業マンの同僚や先輩にも相談できなかったし、相談しようとも思わなかった。
消えて行った先輩達と同じようにただ誰にも告げずに、翌朝から連絡を断ち出社しなかった。出社できなかった。そんな辞め方は当然したくなかったが他に方法が見当たらなかった。
しばらくは会社から連絡があったがそのうちその連絡も途絶えた。めちゃくちゃなブラック企業だったが、お世話になった先輩や同僚もいた。ちゃんとあいさつできなかったことは今でも後悔している。ごめんなさい。
逃げ出すように辞めた僕はしばらく次の職に就けなかった。3ヶ月くらい家でだらだらしていた。何となく逃げ癖のようなものがついてしまった頃だと思う。今思い出しても辛い。
そして貯金も底をつき、暗い気持ちを抱えたまま次の仕事を探した。お金を稼げれば何でもよかった。自分が何をしたいのか?全くわからなかった。ただ漠然と仕事を求め印刷工場の仕事に就いた。この時点で4回目の転職だ。だんだん転職大魔王の片鱗が見え始めた頃だ。
この工場は6ヶ月くらいで辞めてしまった。理由はよく覚えていない。別にきつい仕事でもなかったし周りもいい人が多かった。ただ何となく辞めたくなっただけだ。季節が変われば洋服が変わるように仕事も変えていた。
この頃の僕はトランスのレイヴパーティーにハマっていた。
毎週末深い山の中で開かれる秘密のパーティー。僕の音楽的趣向はレゲエからトランスに移行していた。シンプルに何でもありのドラッグパーティーにどハマりしていた。山の中でキャンプをしながら爆音に身を委ね踊りまくる🎵
別世界だった。日常の些細な悩みなど吹っ飛んだ。
次は金属を溶かし加工する金属工場に派遣で勤めた。暑くて危険な仕事だった。3交代勤務で昼夜問わず働いた。毎週末のパーティー通いのせいもあって僕は腰を痛めてしまった。
かなりの力仕事だったので腰が痛くては務まらない。体調が悪くカイロプラクティックや整骨院などの治療を頼ったがそこまでの効果は得られなかった。
この頃から僕は自分の体のことを真剣に考えるようになった。結局この仕事も7〜8ヶ月で辞めた。続けていくのは不可能だった。
また無職の宙ぶらりん状態に逆戻りだ。今思い出してもちょっと気が滅入る。
何か自分の軸になるものが欲しかった。
そんな時治療を受けていたカイロプラクティックの先生が『仕事がないんだったらカイロやってみる?』と誘ってきた。
特にカイロプラクティックに興味があったわけではなかったが、手に職を付ければ生活が安定するかも知れないという淡い思いあった。それにアメリカ発祥のカイロプラクティックという医学もその時の僕にとっては斬新で興味深かった。
ということで、先生に誘われるままカイロプラクティックのセミナーに参加した。ホテルに1週間缶詰で講習を受け最後の日にチェックを受けほぼ全員が合格した。受講料は当時の価格で36万円。
結論から言えばこれはカイロプラクティックを謳った寝具販売のネットワークビジネスだった。ねずみ講に近いシステムのマルチ商法だった。
手に職をつけて生活を安定させたいと思っていた不安定な僕の心につけ込まれた。技術講習は段階的に設定されており、次の段階にいくには125万円分の睡眠マットや枕を買わなければいけない。そして受講料は50万円。とにかくお金がかかる。
僕は貯金を使い果たし更に借金をして次の段階に進んだ。今思えば僕の頭は空っぽだった。
気づいたら抜けられないところまで足を踏み込んでいた。技術には興味はあったが睡眠マットは欲しくなかった。
ねずみ講なので誰かを勧誘し自分のもとで僕と同じようにマットをたくさん買ってくれる人を集めて自分の組織を大きくしていくしかないが全然勧誘できなかった。何より勧誘したくなかった。借金だけ残り身動きが取れなくなった。
ネットワークビジネスの人達とは手を切った。もう無理だった。
この時24歳。真っ暗な気持ちだった。追い討ちをかけるように突然交通事故にあった。悪い事が続く時期だった。気持ちは重く焦っている。どうしよう?困った。
そんな時一緒にカイロをやっていた同僚がこんな事を教えてくれた。『交通事故に遭ったら病院にいっぱい通うといいよ。その分慰謝料がもらえるよ。借金かえせるかもよ?』
よく意味がわからなかったが僕は借金を返したい一心で同僚に紹介してもらった病院に通い続けた。病院の方も事故専門のような感じで話が早い。半年間病院に通い借金を完済した。
助かった。災い転じて福となすという事か?
とにかく綺麗な体になった僕は新しい気持ち近所の整体院と整骨院でダブルバイトを始めた。せっかく身に付けた技術を少しでも生かしたかった。
施術の仕事を始めて6ヶ月くらい経った頃、東京に住んでいる女の子と付き合い始めた。しばらく遠距離恋愛を続けていたがどうしても彼女のそばにいたくて一緒に住むことにした。
新しい仕事を始めてようやく軌道に乗りそうな時だったが、恋は盲目である。仕事を全て辞めて彼女の家に転がり込んだ。初めての同棲。初めての東京暮らし。あの頃の僕はきっとキラキラしていたことだろう。わくわくしていた。
3ヶ月ほど仕事を探しながらパチスロを打って過ごし、世田谷の整骨院に就職した。仕事も彼女との暮らしも楽しかったが、週末のパーティー通いはやめられなかった。トランスパーティーに通ううちに僕はトランスパーティーの聖地、インドのゴアに行きたくなった。
当時のトランスパーティーはただのEDMとは違い、ヒッピームーブメントの影響を強く受けた、ひとつのカルチャーであり信念であり生き方だった。トランスDJ達は世界中を旅して自然の中でその存在をかけてプレイする。まさにトランスカルチャーの体現者だった。どこまでも自由で平和で力強い。憧れた。
若い僕はそのカルチャーに心奪われた。トランスパーティーは元々バックパッカー達が旅先で始めたドラッグパーティーだ。僕はバックパッカーがどうしてもやってみたかった。学歴も資格も関係なく誰でも始められる。
僕は1年半かけてお金を貯めて仕事を辞め、彼女とバックパッカーになった。とりあえず東南アジアに飛んだ。当時はトランスパーティーにどっぷりはまりバックパッカーをやっている人がたくさんいた。僕の周りだけでなく全国的に相当数いたはずだ。そういう時代だった。
旅のルートは東南アジアからインド、インドからインドネシアに戻りそこからオーストラリア。ワーキングホリデーで働いて南米へ行きたかった。でもオーストラリアで彼女が体調を崩し帰国した。開放的な旅だった。
オーストラリアでは車の免許をとりゴールドコーストの洗車場で働いた。4ヶ月で辞めてしまったが楽しかった。
帰国した後、なぜか彼女とうまくいかなくなり別れてしまった。僕は神奈川に居を構え、再度派遣の工場で働いた。に交代勤務の機械の組み立てだ。友達と一緒に応募して一緒に働いていたので気楽にできたが、僕は半年でその工場を辞め1ヶ月間再びインド旅行へいった。
旅行から戻った後当然仕事を探したがちょうどリーマンショックの時で景気が悪かった。今までのようにお金がなくなったら適当に仕事をみつけお金が貯まったらすぐに辞めてというスタイルは厳しいような気がしていたしもう工場では働きたくなかった。
そこで施術の仕事に戻ることにした。東京の整骨院を探し就職した。就職して1年経った頃、このあたりでしっかり手に職つけて安定した仕事をしたいと考えた僕は、親からお金を借りて柔道整復師の専門学校に行くことにした。昼間は働いて夜学校に行って勉強するという生活が始まった。
ここでも僕の転職癖は治らず仕事を変えた。学校に入った時点で東京の整骨院を辞め学校の近くの整骨院にバイトとして入ったが3ヶ月で辞めて今度はパチンコ屋さんでバイトした。
学校との二重生活になかなか慣れずにそこも6ヶ月で辞めてしまった。
学校の勉強があるのでコロコロ仕事を変えたくはなかったがなぜかそうなってしまった。困ったものだ。
この時僕は30歳。
二十代の職歴は転職12回。約半分はバイト。
遊ぶことばかり考えて仕事のことを全然真剣に考えてなかった。当面のお金が手に入ればそれでOKという人だ。
30になれば少しは安定するだろうとたかをくくっていたがそうはいかなかった。30歳を過ぎても僕は着々と職歴を増やしていくのだった…。
30代
専門学校に通い始めて1年間で2度仕事を変えた。精神的にも肉体的にも安定した職場を求めていた。次にお世話になった職場は学校の近くの整骨院。
ここでは何とか専門学校卒業まで勤めることができた。
この時僕は33歳。一般的にみたら遅いスタートだったが気にしなかった。
卒業と同時に2年間勤めた整骨院を辞め1ヶ月のショートトリップで心をリフレッシュさせた。
新しい気持ちで今度は整形外科に就職した。この時36歳。
専門学校を卒業したばかりということで根無草だった僕が資格を得て少しキャリアアップしたような気がしていた。
学費の借金を返したい一心で働いた。結局この職場は2年半で辞めた。辞めた理由は経済的に少し余裕ができてまた旅に出たくなったから。
資格を取ったからといっても人間の本質は変わらない。
施術技術の向上やキャリアアップよりも自由でいることを選ぶ。
これは抗いようのない強い気持ちだ。抵抗しようとすると体調が悪くなる。
野生動物を檻の中で飼うようなものだ。檻の中では動物の持つ本来のしなやかさや美しさが失われてしまう。
とにかく35歳でまた旅に出た。行き先はタイとインド。のんびりと大陸の乾いた風に吹かれたかった。日本から楽器をたくさん運びゆったり音楽を楽しみたかった。
6ヶ月間タイとインドを旅した。気楽な一人旅だったが段々不安になってきた。20代の頃のような後先を考えない旅ができなくなっていていた。ただその瞬間を楽しむことができない自分がいた。
『これから先どうしていこう?』『会社勤めはもうやりたくないしできない』一人でいると不安を刺激する思考が駆け巡る。
なんで不安になるんだろう? せっかく旅をしているんだから 何もかも忘れて、旅を楽しめば良いのに。
そんな時、安宿でインターネットビジネスで生計を立てながら自転車で旅をしているロシア人と一緒になった。そんな彼のライフスタイルに憧れた。 パソコン一台で仕事ができれば僕の悩みの大部分は解消される気がした。いいアイデアだと思った。自分の自由を犠牲にしなくてすむ。
本当はインドから南米に飛んで貯金が尽きるまで旅を続けるつもりだったが、お金の心配、将来の心配を優先し少しの余力を残して日本に帰ってきてインターネットビジネスを始めた。
2015年、37歳の時に小さな学生用のワンルームアパートを借りてパソコン一台で起業を目指した。 パソコン一台でお金を稼ぎまくり職場に縛られない自由な人生を手にいれる。ありきたりだがこれが目標だった。僕のような人間には十分価値のある目標だった。
右も左もわからずすべてが手探りの状態だった。これが僕の『ネットビジネス難民時代』の始まりだ。
ネットビジネスといっても多種多様で予備知識のない僕にとっては完全なジャングル。物販やメルマガ、アフィリエイトにFXトレード何をすればいいのかわからなかった。
いろんな教材を買い漁り結局僕はブログを始めた。いろんな教材で中途半端に学んでいたので方向性のはっきりしないブログだったが、やみくもに記事を書き続け300記事を投稿した。
計画性のない行き当たりばったりのサイトでも、好きなアウトドアグッツや旅グッツを紹介し月収10万円くらいにはなった。ここまで行くのに1年半はかかった。アマゾンリンクで5%の報酬をもらうかなり細かい商売だ。
しかし10万円では食っていけない。貯金は底をつきアルバイトを始めた。その時住んでいた場所の番近くにあったアダルトショップでバイトしながらネットビジネスを続けた。
仕事は基本一人。レジ打ちやDVDの品出し検品、ネット販売の管理と店内の掃除。そして万引きされないようにカメラで店内の監視をする。空いてる時間も多くその時はパソコンを持ち込んで自分の仕事をした。
時々AV女優のサイン会があり忙しかったが、それ以外は基本暇だった。でもひとつ気になったのが店中の至る所に置かれた小型モニターから女性の喘ぎ声がけっこうな音量で流れ続けている。
最初はまあ無視できたが、1日8時間、週5日その環境にいると段々嫌になってきた。街で子連れのお母さんを見かけると『あれ?この人あのAVに出てる人かな?』とかコンビニの店員のおばさんを見て『この人もバックヤードで店長とやってるのかな?』などと考えるようになってきてしまう。
まあそのうち慣れるだろうと思ったが、段々気が変になりそうになってきた。やっぱり正常な環境とは言えない。
そのうちAVのパッケージを見ているとイライラするようになり最終的に心底嫌気がさして半年でやめた。あれは根っからのAV好きがやる仕事だ。僕もAVを観ないわけじゃないがそこまで好きじゃない。熱狂はできない。
この後もネットビジネスxバイトというダブルワークが続く。次はやはり以前やっていた施術の仕事が無難だろうという事で市街地にあるマッサージショップでバイトをした。
久しぶりのマッサージの仕事だった。これで生活を安定させ少しづつネットビジネスを成長させていけばそのうちバイトを辞められるだろうと思っていた。
だがしかし、僕はこの職場で一緒に働いていた子持ちの主婦と恋に落ち不倫関係になった。
最初は楽しかったが、段々辛くなってきた。不倫というものは罪悪感がハンパない。
罪悪感と自己嫌悪。いくら自分を正当化しても拭えない。辛かった。死にたかった。別れようと思っても職場が一緒なのでまた始まってしまう。
こんな状態ではネットビジネスどころではない。いったい俺は何をやってるんだあ!!
アダルトショップでAVを見すぎて潜在意識の中がSEXでいっぱいだったのかもしれない。
とにかく不倫関係を清算するために、僕は仕事をやめた。やめるしかなかった。結局ここは1年くらい勤めた。
自由な人生を手に入れたくて始めたネットビジネス。自由どころか僕の生活はどんどん不安定になっていった。精神的にも経済的にもほんとキツかった。
ここで僕は実家に帰った。ボロボロになった心と体を癒したかった。
実家に帰り、介護施設で働き始めた。とにかく求人がたくさん出ていて比較的就職しやすく、一応柔道整復師の資格も活かせるので都合が良かった。
あいかわらずネットビジネスはあきらめられなかったので、介護施設はアルバイトにしてネットでの起業を目指した。介護施設xネットビジネスのダブルワークだ。
40手前で実家に戻るのは抵抗があったがとにかく生活を立て直したかった。
この頃の僕は本当に心身のバランスを崩していた。
3ヶ月ほどして介護施設でのマッサージの仕事にも慣れてきたので週末だけ結婚式の音響のバイトを始めた。
なぜそんなにきつい事をしたのか?自分でもよくわからないが、昔から音楽や音響機材が好きだったので一度音響の仕事がしてみたかった。
結婚式にあんまり興味はなかったが、一般的な求人誌には結婚式の音響しかなかった。
ネットビジネスx介護施設x結婚式音響というトリプルワークがはじまってしまった。音響の仕事自体は楽しかったがこんな生活を長く続けられるはずもなく、すぐに終わりが来た。口の中全体に変なできものができて全くご飯が食べられなくなった。
無理はするな…。
結局音響の仕事と介護施設は6ヶ月でやめた。心身ともに疲れ果てネットビジネスも手につかなくなっていた。けどお金は稼がなければならない。
次は実家の近くの介護施設に勤めた。もう何が何だかわからなかった。とりあえず実家で生活を保っていた。
この時40歳。
転職回数7回。半分はバイト。迷い続けた30代だった。
資格を取ったのに会社勤めができなくてなんとか自分で仕事を始めたが全然いまく行かずバイトを繰り返した。
とにかくドタバタしていた。ただ妥協せず自由なライフスタイルを求めた。求めた結果ボロボロになった。死にたい時も何度かあった。それでも生きた。
そのことだけは自分を褒めたい!!
40代
40代になっても介護施設xネットビジネスのダブルワークを続けたが、ブログアフィリエイトを続ける気力はなくなっていた。
アフィリエイトというビジネスは無計画で初めても続けるのが難しい。
ダブルワークに疲れた僕はネットビジネスを一旦あきらめ介護施設の仕事に集中した。バイトだったが職場の人間関係に恵まれた。
働き始めて2年経った頃社員にならないか?と会社から声をかけられた。迷った。迷ったがやはり自由なライフスタイルへの憧れがあった。あきらめられなかった。
もういちど自分でビジネスをやりたかった。何としても自分の納得いく形で生計を立てたかった。
また性懲りも無く2年半で仕事をやめ、今度は転売にチャレンジする。転売はブログアフィリエイトよりはわかりやすかった。
品物を安く仕入れてネットで高く売る。シンプルだ。何でもそうだが最初からなかなかうまく行かない。6ヶ月ほどで資金が底をつき仕入れができなくなった。しかたなかくまたまたバイトを始めた。
夜勤の派遣工場だ。派遣工場は健康であればすぐに就職できる。夜働いて昼間は家で転売の仕事をした。
そのうち工場がキツくなってきたので工場の夜勤バイトはやめて、リサイクルショップに転職した。これも夜勤だった。副業で転売業を営んでいたので少しは勉強になるだろうという感じで始めた。
何とか転売を軌道に乗せたかったが、今度は同居している父親が病気になった。
父親の看病で転売の仕入れに行く時間がなくなった。
仕入れができなければ物販ビジネスは成立しない。ネット転売もあきらめた。
僕はただのフリーターになった。混乱した。これからどうしよう?
この1年間父親は入退院を繰り返している。年寄りの介護は想像以上に疲弊する。そしてお金もかかる。超高齢化社会とは深刻な問題だ。
僕は副業やネットビジネスを『自由なライフスタイル獲得』を目的にやってきたが今はそれどころじゃない。何とかお金を稼ごう思った。
バイトをやめて就職しようと試みた。45歳で再就職を目指して活動を再開した。
しかし、どうしても気が乗らない。整骨院や介護施設。選ばなければ仕事はある。これだけでもありがたいことだ。本当にありがたい。
でも、先が無い。とりあえず急場をしのぐことはできるが…。
こんな状態では面接に行っても覇気がない。やる気がアピールできない…。
そしてバイトをやめて3ヶ月がたった。悶々とした日々が続く中自分に問い続けた。
何がしたいの?どうなりたいの?何が好きなの?
自分探しだ。とりあえず何でもいいから自分が好きなものを書いてみる。
今の僕が好きなことは……
自由、猫、旅、音楽、読書、キャンプ、登山、アウトドア、SEX、サウナ、料理、映画、パソコン、WEED、リラックス、温泉、海外の空気、ファッション、人との会話、ビジネス、静かな空間、森の香り、お風呂、Netflix、潜在意識、宇宙の法則、空、月。
これをどう仕事に結びつけたらいいのか?
自分の好きなことを好きなように楽しんでいるだけでは仕事にならない。
人に有益な何かを提供できて初めて仕事として成立する。
一つ確かなことは、自分の好きなことを何かしら発信して知ってもらわないことには始まらない。まずは発信することだ。
Youtube SNS ブログ オンラインサロン。発信する媒体には事欠かない時代になった。
自分の好きなことを何らかの形で発信していこう。まずはそこがスタートラインだ。
発信しながら需要との接点を探るしかない。とりあえずやってみよう!
僕は自由が好きだ。自由でいることを何よりも優先する。
何か自由を感じさせる発信をしていこう!!
高校生の女の子が言っていれば可愛らしいが、45歳のおっさんが言う言葉ではない。
でもこれが現実だ。今の僕はそのレベルだ。
とにかく今のレベルを認めてそこから一歩づつ行くしかない。幸いにもまだ45歳だ。
まだまだ体も動くし、頭だって使える。ここからどんどん成長していこう。
まとめ
本当の自分を探すために半生を振り返ってみた。
振り返ってみたが、『これが、これこそが本当の自分だ!』というものは見出せなかった。
しかし、ひとつ気づいたことがある。
こうして文章を書く行為は嫌いじゃない。すごい楽しくもないが苦痛ではない。
これは大きな発見だ。ありがとう。
やりたいことを仕事にする。
非常に魅力的なキャッチフレーズだ。
僕はこの言葉の魅力に取り憑かれてきた。いつか好きなことを仕事にできる日が来るんじゃないか?という淡い希望をずっと抱いてきた。
でも実際に仕事を探す段階になると、給料や職場環境、通勤距離など現実的な条件で選んでしまう。
それで迷路にハマっていた。迷路はもう嫌だ。
とりあえず、Webライターをやりながらブロガーを目指そうと思う。嫌になったらやめればいい。気楽な気持ちで始めてみようと思う。
結局僕の転職回数は21回。バイトを含めると30回近くになる。
こんなにボロボロのプロフィールでも人は生きていける。とにかく僕は今日まで生きてきた。
それだけは誇らしく思う。ありがとう!!


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